この世界は
ぜんぶ相対的にできている。
そこにあるように見える風景
山、木、川、橋、花に集う虫たち
街灯、建物、道路、公園
ねこ、空き缶、パン屋さんの看板
通り過ぎる車の風
タイヤが砂利を噛む音
遠くの駅の、電車の到着を知らせる光
そして
同じような場所にいる
同じような形の
同じような構造の
同じようなコミュニケーションをとる
何かそういう存在
そういった対象がそこにあって
はじめて、私の立ち位置がわかる。
…
いや、わからない。
本当に「そこにある」と言えるのか?
もしかしたら世界って
「そこにある」と認識しているだけの
あまりにもリアルな幻影
昔のテレビは小さい点々がたくさんあって
映像を構成してるのがよく見えた。
点描画のように。
そんな感じの“世界のもと”
その集まりを風景だと思っていたり
いつも共にある“世界のもと”の集まりを
「自分」だと思っていたり。
目に見えるものだけじゃない。
“世界のもと”の一部を
「持つ」「叩く」「撫でる」
「挟む」「触れる」みたいな
行為として識別して
それに伴う振動を
「心地よい」「明るい」「騒がしい」
「甘い」「暖かい」などと思う。さらに
いちばん近くにある“世界のもと”は
「うれしい」「悲しい」「つらい」「楽しい」
を見出だし、感情だと思う。
“世界のもと”に翻弄されつつ
日常という空間をつくる。そして
…ただ遊んでいるだけなのかもしれない。
ひとつだけ正しいと思うのは
世界は、意識・無意識かかわらず
“世界のもと”を、私が認識したとき
はじめて展開されるということ。
認識することで、世界は創造されること。
