窓は窓であるゆえ、雨風で傷はつく。
そういうもんだ、と あきらめて
そのまま受け入れるモノと思ってた。
だけど窓ガラスの傷ひとつも許せない。
その傷を いかに他者の責任にするか。
そういう社会を見た。
政府とか学校とかも含め
自分以外に “悪”を見立てて形成される。
この都会はたぶん
これまで訪れた土地のなかで
いちばん言った者勝ち社会。
人しかいないから
人以外のモノが見えづらい。
全体は部分の総和じゃない。
小松菜の成分を分析し尽くして
その成分をすべて合成したところで
小松菜にはならない。
見えない何か…生命って言ったりするけど
成分の中を行きわたって
成分の「間」に満たされて
はじめて小松菜になるんじゃないか。
人々で社会は成り立ってるけど
人を集めても社会にはならない。
“烏合の衆”になる。
人と人のあいだには
見えない「間」があるからこそ
社会が成り立つんじゃないのか。
窓ガラスに傷がつくのは当然なことに
気づかないくらい 人と人が密着してて
命を感じる「間」が なくなっていく。
「言いたいことは言ったほうがいい」
よくみんな言うんだけど。
もう 言いたいことも 思いつかない。
無力、無気力、アパシー、みたいな。
恩師は よく言ってた。
「言いたいことは 言わないほうがいい」
私もそう思う。
言い“たい”って、一種の欲求。
欲求のまま言って、いいことない気がする。
欲求と言葉の前の「間」に
一枚フィルターを通さないと
どんなありがたい忠告だって
浸襲性がある毒に同じ。
何か相手に言うときの
フィルターつまり「間」っていうのは
思いやりだったり、謙虚さだったり。
言うことで 相手は何を思うか。
本当に自分の言葉は 相手のためになるか。
思いやるのは ほんの一瞬でもいい。
一瞬待てばいいことだ。
ただ、一瞬でさえ
自分の思いにブレーキをかけるには
抑止力は必要。
その抑止力という“無駄”なエネルギーを
人は しばしば節約したがる。
勢いに任せて言っちゃえば
とても楽だし。
勝手な妄想だけど
人はみんな、一本の木が植わった鉢と
水を満たした水差しを持っていて
木に水をやりながら生きていると思う。
自分で水を与えることもできるけど
他人に与えてもらうと
より豊かな木に成長する。
ただし水には毒が混ざっていて
あまりにも毒が強いと
木を枯らしたり、うまく育たなくしたりする。
だから、きれいにしながら水を与える。
相手に何かを言うとき
相手の木に水を与えている。
その水に強い毒を感じたら
水差しと木の「間」に
自分でフィルターを設置して
木を守る必要がある。
ところが、しばしば人は
自分の価値観の流れに任せて
惰性で他人に突っ込んで行く。
水差しに毒なんか入ってるわけがない、と
「間」を詰めてくる。
あなたの木のために
せっかく水をあげてるんだから
フィルターとか要らないでしょ?
ありがたいでしょ?感謝しなさい
素直に受け入れないと、そのうち
誰からも与えられなくなるんだから…って。
あぁ、枯れちゃった
サン・テグジュペリは
キツネに描いてるんだと思う。
心を通わせるのに 必要な「間」を。
