誰が為に

ある程度安全なところにいるとき

たとえば定職があって
味方がいて
自分の時間があって

安全なところにいれば、何だってできる。

ひとにアドバイスをするのも
人の幸せを祈るのも
日常生活だって「ふつう」にできる。

だけどそれがないとき
見えなくなるとき
「ふつう」ができないことを知った。

人と話すとか、気を配るとか
信じるとか。
そもそも日常とは何か、わからなくなる。

ここにいるけど、いないような
人みたいに見えるけど人のようではない
ただそういったものになる。

だけど

そんなときにだけ
できることがあることも知った。

悲嘆の末、この世を去ったひとの世界を
リアルに体感するということ。
共感と独りよがりのちがいを知ること。

それなどは、際まで行って
ようやくはじめてわかること。

安全な場所から動かなければ
永遠にわかることがない。

また、際から安全な場所に戻るなら
記憶は残れど
体感はすぐ忘れてしまう。

きっと悲嘆を克服した者は
自ら語らないほうがいい。

克服すると、体感がほとんど消え去って
「共感に似ているもの」は殆どすべて
独りよがりに染まってしまうものだから。

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