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同じだけど、ちがう木
先月「キンモクセイ」と紹介した木。

花は ぜんぶなくなって
それと言われなければ
パッと見はわからない。
ただ静かに立ってる木。
虫たちも居ない。
立ち止まって眺めてるのは 私だけ。
なんかね。
昨夜、汐留でイルミネーションを見た。
光がいっぱい集まって
クリスマスツリーみたいになってて
すごくすごく、きれいだった。
そして今日。
仕事の休憩時間、ひとりで
シベリウスの“もみの木”を聴いてた。
シベリウスが描いたのは きっと
なんか暗い場所で
雪のなかにひっそり佇んでる。
そんな木かなと思う。
汐留の…街で光ってるのと
同じだけど、ちがう木。
私はそれぞれ 別物として
割りきって捉えたらいいと思ってた。
今この瞬間をとらえて
それだけを判断材料にすれば
多量に 素早くさばけて 効率がいい。
でも ほんとにそれで、
それだけでいいのか。
花のなくなったキンモクセイに
「寒くなったね」と話しかける。
…なんで私は話しかけた?
どこにでもある木に
あいさつして回ることはしない。
きっと
この木の、この木とちがう姿を
知っていたから。
花のある木と
花の終わった木。
両者のすきまに感情をみるから。
イルミネーションに恍惚とし
シベリウスに 感銘を受ける。
ぜんぶのものは
瞬間として存在してるわけではなくて
すきま…背景…かかわりがあって
そこに心があるみたい。
“すきま”を意識するとか
そんな暇がないとき「忙しい」という。
「忙しい」は 心が亡いって書くけど
本当にそうなってしまうということ。
ときには、ぼんやり木とか眺めて
“すきま”を感じてみることも
たぶんとても、たいせつなこと。